聴覚障害者活動と聴覚障害者福祉制度

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聴覚障害者活動と聴覚障害者福祉制度

1.ろうあ運動と福祉の発展について

(1) 民法11条の準禁治産の規定から「聾者唖者」を削除する改正運動が進められた結果、1979(昭和54)年に改正された。

(2) 厚生大臣認可の手話通訳士試験制度により第1回試験が1989(平成元)年度に行われた。

(3) 1990(平成2)年、身体障害者福祉法の一部改正により、聴覚障害者情報提供施設が法制化された。

2.道路交通法改正について

(1)1973(昭和48)年に、警察庁が補聴器を着用して10メートル離れて90ホンのクラクションが聞こえることを条件に、聴覚障害者の運転免許取得が認められたが、全ろう者の場合は認められなかった。
 
(2)2008(平成20)年よりワイドミラーと聴覚障害者標識装用という条件で全ろう者の運転免許取得が認められた。

3.1985(昭和60)年に財団法人全日本ろうあ連盟は、手話通訳制度の実現への支持と理解を国民に得るためのパンフレット普及運動をしました。このパンフレットの名称は「アイ・ラブ・コミュニケーション」である。

4.手話通訳制度化の取り組みについて

(1)1982(昭和57)年に全本ろうあ連盟は「手話通訳制度化検討委員会」を発足させ、養成、派遣、設置の問題点を解決するための検討を始めた、

(2)1985(昭和60)年に全日本ろうあ連盟は、新たに全国で4000人の手話通訳士が必要であるとの手話通訳制度調査検討報告書を厚生省に提出した。

(3)「アイ・ラブ・コミュニケーション」パンフ普及行動の結果、1989(平成元)年度に、厚生大臣認可による手話通訳士試験制度が実現した。

5.2006(平成18)年12月13日に第61回国際連合総会で「手話は言語である」を盛り込んだ障害者の権利条約が採択された。私たちが日常使用する手話が音声言語と同じように言語として認知されたことは大きな意味を持つ。全日本ろうあ連盟は、手話通訳事業全体の底上げと発展のために、手話及び手話通訳にかかわる権利を定義する法律制定に向けて取り組んでいる。

6.聴覚障害者の組織について

(1)1878(明治11)年の京都盲唖院設立をきっかけにろうあ者集団が結成された。その集団の中で手話が生み出され、コミュニケーションの輪が広がった。

(2)1915(大正4)年に日本聾唖協会が結成されたが、初代会長は健聴のろう学校長であり、同窓会の全国組織に過ぎなかった。

(3)1947(昭和22)年に全日本聾唖連盟が結成され「ろうあ者の、ろうあ者による、ろうあ者のための」全国組織となり、都道府県協会も組織・整備された。

7.1970年代のろうあ運動は「4本柱」の国会請願を中心として、要求実現のために全国規模の運動を繰り広げてきました。
4本柱(自動車運転免許獲得、民法11条改正、手話通訳制度化、聴言センター)の署名運動開始。7万人の署名を国会に提出しました。

(1) 民法11条の準禁治産の規定から「聾者、唖者」を削除すること。
(2) 中央・地方に効率の聴覚言語障害総合センターを設置すること。
(3) 手話通訳の国家人手制度を設け、認定通訳者を公務員として採用・配置すること。

8.ろうあ運動の歴史について

(1)京都で初めて「全国ろうあ青年研究討論会」が開かれた。「差別青研」と言われ、一人の人間として幸せを求めるために差別と闘おうとする姿勢を作り出した。

(2)岩手のろうあ青年が仕事のためオートバイの無免許運転を繰り返し、起訴され裁判になった。ろうあ者に運転免許を認めない制度の違憲性を争い最高裁で敗訴なったが、この裁判が契機となり1973(昭和48)年の道路交通法88条の弾力的運用に繋がった。

(3)第11回世界ろう者会議が初めてアジアでの開催として東京で開かれた。国内だけでなく、アジアの発展途上国に対する支援など国際的な役割が重視されるようになった。

9.ろうあ運動の歴史について

(1) 1965(昭和40)年に起こった「蛇の目寿司事件」で裁判における手話通訳保障の問題が初めて提起された。
(2) 1970(昭和45)年には手話奉仕員養成事業がスタートし、手話通訳の重要性を広く社会に認知させた。
(3) 1979(昭和54)年にはろうあ者というだけで不当に準禁治産扱いされる民法11条が改正された。
(4) 1985(昭和60)年には手話通訳制度の実現への支持と理解を求めて「アイ・ラブ・コミュニケーション」パンフ普及運動を始めた。

10.ろうあ運動の歴史について

(1)1960年代の全日本ろうあ連盟は、「差別青研」をきっかけに、行政に対して「お願い」する団体から「要求」する団体に代わった。その頃から「ろうあ運動というネーミングが使われるようになった。

(2)2006(平成18)年12月に国連総会で21世紀初の人権条約として「手話は言語である」を盛り込んだ障害者の権利条約が採択された。

11.ろうあ運動は1970年代に入るとさらに発展し「4本柱」の国会請願を中心として、要求実現のための全国的規模の運動を繰り広げました。その要求内容については

(1) 中央・地方に効率の聴覚言語障害総合センターを設置すること。
(2) 道路交通法を改正し、補聴器の条件なしに聴力障害者に運転免許を認めること。
(3) 手話通訳の国家認定制度を設け、認定通訳者を公務員として採用・配置すること。

などがあります。

12.ろうあ運動と福祉の発展について

(1)1970(昭和45)年に手話奉仕員養成事業が開始された。
(2)1975(昭和50)年、衆議院予算委員会に国会史上初めてろうあ者が公述人として出席し、民法11条の改正を訴えた。
(3)厚生労働省公認の手話通訳士試験は1989(平成1)年に第1回試験が行われた。

13.ろうあ運動の歴史について

(1) 権利として福祉を要求する運動が始まるのは1966(昭和41)年、この年は(財)全日本ろうあ連盟の運動史上「ろうあ運動元年」と呼ばれている。
(2) 手話と障害をからかわれ、喧嘩の仲裁に入った人を突き飛ばして死亡させてしまった事件を「蛇の目寿司事件」と言い、裁判における手話通訳保障の問題が初めて提起された。

14.ろうあ運動の歴史について

(1)1975(昭和50)年3月の衆議院予算委員会には、国会史上初めてろうあ者が公述人として出席し、手話通訳を通じて、ろうあ者に対する銀行ローンの不当な扱いと民法11条の改正を訴えました。当時の民法11条は、準禁治産の要件に「聾者、盲者、唖者」を指定しており、不当に準禁治産を宣告されたり、ろうあ者というだけで融資を拒否される例が少なくありませんでした。ろうあ者差別の表れであるとして抜本改正を求めたものです。1979(昭和54)年の民法11条改正となって実を結びます。

15.ろうあ運動、手話通訳活動の歴史について

(1)1986(昭和61)年の衆議院選挙(東京選挙区)に立候補したろうあ者の政見放送が手話のみの放送となり、マスコミに大きく取り上げられた。

16.聴覚障害者や手話通訳者の組織について

(1)1974(昭和49)年6月、青森市において、全国手話通訳問題研究会が発足した。現在47都道府県に支部が結成され、2001(平成13)年度では10400人の会員がいる。

(2)1989(平成元)年から始まった手話通訳士試験合格者を中心に、1991(平成3)年5月日本手話通訳士協会が結成され、2002(平成14)年度1118人の会員がいる。

17.聴覚障害者・児の日常生活用具、補装具について

(1) 日常生活用具は市町村に本人、または家族が申請することによって給付または貸与される。
(2) 1973(昭和48)年度から日常生活用具として給付されていた子どもの泣き声を光信号に変えて知らせる機器のことを、クライ・シグナルとも言っていた。
(3) 補聴器には、箱形、耳掛形、挿耳形、眼鏡形があり、聴覚障害者・児に交付され、修理費も公費負担される。

18.1965(昭和40)年、京都府立聾学校高等部生徒がプールの清掃問題を契機に、写生会の授業を拒否した事件が起こった。背景には口話絶対主義があり、京都府ろうあ協会はこれをろうあ者に対する差別ととらえ、事件の経過と問題点を1966(昭和41)年に発表した。これが3.3声明といわれている。

19.ろうあ運動の歴史について

(1) 権利として福祉を要求する運動が始まるのは1966(昭和41)年、この年は(財)千二本ろうあ連盟の運動史上「ろうあ運動元年」と呼ばれている。

(2) 手話と障害をからかわれ、喧嘩の仲裁に入った人を突き飛ばして死亡させてしまった事件を「蛇の目寿司事件」と言い、裁判における手話通訳保障の問題が初めて提起された。

20.1975(昭和50)年3月の衆議院予算委員会には、国会史上初めてろうあ者が公述人として出席し、手話通訳を通じて、ろうあ者に対する銀行ローンの不当な扱いと民法11条の改正を訴えました。当時の民法11条は、準禁治産者の要件に「聾者、盲者、唖者」を指定しており、不当に準禁治産者を宣告されたり、ろうあ者というだけで、融資を拒否される例が少なくありませんでした。ろうあ者差別の表れであるとして抜本改正を求めたものです。1979(昭和54)年の民法11条改正となつた実を結びます。

21.1986(昭和61)年に行われた衆議院選挙にろうあ者(東京選挙区)が立候補し、手話で政見放送を行いました。手話通訳や字幕も認められず、ラジオでは全く声の無い沈黙の5分間が流されました。このことに関係者らは抗議し、マスコミは「無言の政見放送」として大きく取り上げました。
 この結果、今日では、ろうあ者の政見放送はアナウンサーの代読が認められるようになりました

22.ろうあ運動の歴史について

(1) ろうあ運動の大きなうねりは、1973(昭和48)年に自動車運転免許取得の道を開き、1979(昭和54)年に民法11条改正へとつながった。そして、完全参加と平等をうたった国際障害者年を契機に社会の障害者観に大きな変化があらわれ、1989(平成元)年度には厚生労働大臣公認の手話通訳士試験が始まり2002(平成14)年には1100人を超える人達が資格を取得している。

23.ろうあ運動は、1965(昭和40)年までをお願い運動の時代と呼ばれます。文化・スポーツ面の活動は盛んでしたが、福祉を権利として意識することはなく、ただお願いすることに終始し、それも中心役員の力量と個人的犠牲に頼る場合が多かったからです。
 権利としての福祉を要求するろうあ運動が始まるのは1966(昭和41)年。この年はろうあ運動元年と呼ばれ、地方から主に若い力による新しい運動が芽吹き、その後の運動方向を決定します。

24.ろう盲、ろう知的障害など重複障害のろうあ者のための施設づくりの運動は、1982(昭和57)年開設の京都「いこいの村」が最初です。その後、大阪「なかまの里」、埼玉「どんぐりの家」と続き、東京では「たましろの郷」の運動が進んでいます。重度重複障害者の仲間たちのために、そして手話つ関係者はもちろん、親・教師・一般市民ともひろく手をつないで、運動を進め、経営に取り組んでいくもので、運動目的の面からも、運動主体の面からも、ろうあ運動の新しい発展と言えます。

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